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本日の日記
ああ、懐かしい、懐かしいですね。
何気なく見たら今月の31日で新規日記の書き込みが停止するそうですね。
もちろん最終日まで更新しましょうか。
ついに終わっちゃうんですね。書いてるわたくしは本物ですよ。
昔の自分なら日記の振り返りとかやったんでしょうけど、ここ数年は、というよりも2010年以降はほぼ停止状態だったことを思うと、むしろむなしいので止めておきます。
じゃ何を書くの?
停止期間の私について
いやーほとんど人生オワタ状態ですよ。懐かしいですね、このノリ。
いまやインターネットでさえも自分の居場所はなくなってきたように思います。
この日記を真面目に書いていた2000年代あたりってのは方々に遊び場が存在してましたね。
2chは5chになり、過去の匿名至上主義は今や匿名で誹謗中傷すると、侮辱罪が適応(*1:厳密にいうと厳罰化)になるくらいですから、本当に時代は変わったんだと思います。
ちょっと前にこんなものが審議されてたらもっとネット界隈はざわつかせたと思いますけど(匿名性を著しく低下させるものではないのかもしれないが)特に反対運動もなく。
この辺昔みたいに元気に勝手に語りたいと思うんですけれども、そもそもですね昔のネット界隈っていうのは割と別人格化の形成というのが行われていたような気がするんですね。
この、ここの日記という媒体が登場し、もはや死語と化したブログが登場したときっていうのは、現実に即した自分を書きつつもどこか別人のような、本当なのはどうかっていうのは当事者と関係者しかわからない、みたいなそういうのが。
匿名掲示板の流行っていうのは、歴史家的にはnifty-Serve(パソコン通信)の延長としてって指摘するのが正しいんだろうが、あれが名無しという捨てハン(*2:一時的に使用するだけのハンドルネーム(=ネットだけで使う名前のこと)のこと)にこだわった文化を形成してたのは疑似ながらも自分に似ている人格をもつブログとは別の、完全に乖離した無責任な人格を楽しんでいた節があるんですよ。
ブログっていうのは匿名でやっても人格が染みついて、ある程度の一貫性ってのを持たないといけない、でもそのしがらみにつかれて匿名で適当にレスバ(=レスバトル、レスポンスによる論戦)するのが爽快っていうね。
…もう死語のオンパレードで自分がいかに老害なのかがわかる(笑
こうやって注意書きを書いておかないとここ5年くらいネットやってます、みたいな人には伝わらないんじゃないかと思って。
■で、何が言いたいの?
つまりですね、近年はツッタカターだかTwitterで匿名ながらも写真まで乗っけてちょっとITスキル(笑)が高ければ容易に個人が特定できるような形態で情報発信(?)するのがあたりまで、どこに行った、何をしたっていうのを(この日記の過去みたいに)ぼかすことなくすべて(地名などを)実名でかつリアルタイムにやってるわけです。
そもそもそれすら古くってトレンドはリアルタイムな動画配信で顔出しを当たり前になって投げ銭なんて乞食じみた事をふつうにやってるわけですから、もう厭世の感というか、異世界転生感すらあります。
私はボロい人間なのでここが潰れたらもう自分からなにかWebを持つってことはしなくって(TwitterもYoutubeも(閲覧以外)やってないです、SNSは何もしてないので幼馴染からは死んだことになってると思う)
だから自分のネットの居場所っていうのは埃みたいに風に吹き飛ばされるんだと思いますね。
昔と比べてネットはつまらなくなったか?
これはいろいろと意見があると思う。ちょっと前までは僕もつまらなくなったと思ってたけど、面白さが変容して自分がついていけてないだけ、が正解な気がする。つまり万全な匿名を前提とする旧来のネットに親しんだ自分からすると、ネットは極めてオープンなパブリックという認識があるわけだが、今は誰でも見ることはできるが極めて身内的な、フォロワーと主の関係性で盛り上がるネットに面白さを見いだせない、というわけです。
スパチャだの投げ銭だのってシステムは、地下アイドルとファンの関係にすごく似ていると思う。それをオンライン化しただけっていうか。。。
芸能も大規模アイドルより細々やるアイドルの地下化が進行してますよね。
もうマスっていうものが受け入れられない多様性という名の没個性化(本来的な意味ではない)という時代になってきた気がする。
個性を追い求めるあまり昔なら信じられないような低レベルな事物であってもいいと評価するというような、もっとありていに言えば一億層逆張り化っていうかね、でもそれって自分の中学生~高校生くらいの姿勢だったからあまり批判はできないんだけど。
メインカルチャーが教育における個性の尊重(≒大衆化の否定)によって消え失せて
その代替えとしてカウンターカルチャーのメイン化が進んできたっていうのかな。
(教育における個性の尊重と大衆化の否定の補論…
個性教育については90年代以降とくに叫ばれて久しいが、近年でも多様化という言葉とともに礼賛されている。これはアメリカからの輸入であることは戦後の歴史を見れば明らかなのだが、私は個人的にかなり欠陥を抱えていると感じており、個性化尊重の教育を受けている最近の若者の自己肯定感の低さの割合が高まっていることはかなり注目したい。
何が言いたいか?すなわち日本にはクリード(信条・信仰心)がないにもかかわらずいきなり個性というのを輸入したもんだから自分とはかくあるべきなのか?という討議をするまえにとりあえずの個性を容認してしまう。もし世界に自分だけしか存在しなければ他人と自分を認識できないことからも明らかなように本来の個性とは反発や討議のなかで生まれてくるものではなかろうかと私は考えている
アメリカの場合まず宗教があってそこに規範があって、そして自分という存在がいる。だからそことの比較で自分というものを認識し、なにが自分らしいのかをしっかりと認識できるのではないか…と考えている。
保守系議員から愛国心教育についての実施が検討されたことがあったけど、あれは真剣にやるべきだと思う。別に強制的に洗脳させるんじゃなくてその教育を通じて日本人らしさってのをとりあえず貰ってから各々で討議すればよいっていう。
70年代から80年代まで管理教育ながらも個性的な人が登場していたのは皮肉にも『こうあるべきだ』ってことを強制されていたからって側面があるんじゃないかって思ってるわけです。それじゃいやだと言って窓ガラス割りまくる選択、個性的な選択(?)って、選択肢を生み出さないと生まれないっていうか。ああいう教育がなかったら尾崎豊の歌は誕生しなかったと思うんですね)
恥ずかしいような絵柄の電車が街で走っていたりすると本当にそう思う。
別に叡山電車の批判じゃないけど、あんなもんが古都京都に走ってるっていって誰も何も言わないのが、今の無関心化を表していると思う(*3)。
まあエネルギーコストは確実に効率化したと思う。京都の大衆はあんなものは恥ずかしいという風に目くじらを立てずに興味のないこととして無視すればよいのですから。
(*3:もっとも実態として出町柳から以北ですし、いわゆる観光客の目につきやすいところを走っているかというとそうでもない。まともな(?)観光客はひえいに乗るんでしょうが)
久しぶり過ぎて自分でも何を書いてるのかわからなくなってきた、申し訳ない。
つまりつまりですね、僕の中ではいわゆる旧来のメインカルチャーが個性教育の推進によって破壊され(最近感じるトレンドへの違和感の原因)しかし無趣味者であふれるわけじゃないからその代償としてかつてのカウンターカルチャー的存在の"もの"(アニメ・ドラマ・ひとりキャンプなどなど…なんでもよい)がそれぞれバラバラに小規模なコミュニティ内で消費されている、って言いたかった。
テレビの視聴率がとりわけ若年層にきわめて苦戦しているのはまさしくそれが理由で決めつけを嫌がりつつも自分で見つけた(と思い込んでいる)"もの"への執着心と傾倒はすさまじくて、それが先に挙げた非匿名化への抵抗感のなさにつながっていくというか。
その小さいコミュニティで自分をいくら晒そうが周りは同調者だから問題ないわけです。
私はそういうのも好きじゃないからな。無責任でありたい。
補論:近年のTwitter等の炎上について
この論から推察すると炎上の要因はいろいろとある。炎上させた本人が一番悪いというのは置いておくとしても、おそらくコミュニティ中の内ゲバも相当あるのではないかと推測している。それを5chや別アカのなにかに持って行って火をつける…と。
久しぶりの日記でなに小難しいふりして書いてるんだって感じですけども、22年も続いたサイトの終焉なので昔からネットをただ見てきただけの人間として書いてみたくなりました。
ああ、懐かしい、懐かしいですね。
何気なく見たら今月の31日で新規日記の書き込みが停止するそうですね。
もちろん最終日まで更新しましょうか。
ついに終わっちゃうんですね。書いてるわたくしは本物ですよ。
昔の自分なら日記の振り返りとかやったんでしょうけど、ここ数年は、というよりも2010年以降はほぼ停止状態だったことを思うと、むしろむなしいので止めておきます。
じゃ何を書くの?
停止期間の私について
いやーほとんど人生オワタ状態ですよ。懐かしいですね、このノリ。
いまやインターネットでさえも自分の居場所はなくなってきたように思います。
この日記を真面目に書いていた2000年代あたりってのは方々に遊び場が存在してましたね。
2chは5chになり、過去の匿名至上主義は今や匿名で誹謗中傷すると、侮辱罪が適応(*1:厳密にいうと厳罰化)になるくらいですから、本当に時代は変わったんだと思います。
ちょっと前にこんなものが審議されてたらもっとネット界隈はざわつかせたと思いますけど(匿名性を著しく低下させるものではないのかもしれないが)特に反対運動もなく。
この辺昔みたいに元気に勝手に語りたいと思うんですけれども、そもそもですね昔のネット界隈っていうのは割と別人格化の形成というのが行われていたような気がするんですね。
この、ここの日記という媒体が登場し、もはや死語と化したブログが登場したときっていうのは、現実に即した自分を書きつつもどこか別人のような、本当なのはどうかっていうのは当事者と関係者しかわからない、みたいなそういうのが。
匿名掲示板の流行っていうのは、歴史家的にはnifty-Serve(パソコン通信)の延長としてって指摘するのが正しいんだろうが、あれが名無しという捨てハン(*2:一時的に使用するだけのハンドルネーム(=ネットだけで使う名前のこと)のこと)にこだわった文化を形成してたのは疑似ながらも自分に似ている人格をもつブログとは別の、完全に乖離した無責任な人格を楽しんでいた節があるんですよ。
ブログっていうのは匿名でやっても人格が染みついて、ある程度の一貫性ってのを持たないといけない、でもそのしがらみにつかれて匿名で適当にレスバ(=レスバトル、レスポンスによる論戦)するのが爽快っていうね。
…もう死語のオンパレードで自分がいかに老害なのかがわかる(笑
こうやって注意書きを書いておかないとここ5年くらいネットやってます、みたいな人には伝わらないんじゃないかと思って。
■で、何が言いたいの?
つまりですね、近年はツッタカターだかTwitterで匿名ながらも写真まで乗っけてちょっとITスキル(笑)が高ければ容易に個人が特定できるような形態で情報発信(?)するのがあたりまで、どこに行った、何をしたっていうのを(この日記の過去みたいに)ぼかすことなくすべて(地名などを)実名でかつリアルタイムにやってるわけです。
そもそもそれすら古くってトレンドはリアルタイムな動画配信で顔出しを当たり前になって投げ銭なんて
私はボロい人間なのでここが潰れたらもう自分からなにかWebを持つってことはしなくって(TwitterもYoutubeも(閲覧以外)やってないです、SNSは何もしてないので幼馴染からは死んだことになってると思う)
だから自分のネットの居場所っていうのは埃みたいに風に吹き飛ばされるんだと思いますね。
昔と比べてネットはつまらなくなったか?
これはいろいろと意見があると思う。ちょっと前までは僕もつまらなくなったと思ってたけど、面白さが変容して自分がついていけてないだけ、が正解な気がする。つまり万全な匿名を前提とする旧来のネットに親しんだ自分からすると、ネットは極めてオープンなパブリックという認識があるわけだが、今は誰でも見ることはできるが極めて身内的な、フォロワーと主の関係性で盛り上がるネットに面白さを見いだせない、というわけです。
スパチャだの投げ銭だのってシステムは、地下アイドルとファンの関係にすごく似ていると思う。それをオンライン化しただけっていうか。。。
芸能も大規模アイドルより細々やるアイドルの地下化が進行してますよね。
もうマスっていうものが受け入れられない多様性という名の没個性化(本来的な意味ではない)という時代になってきた気がする。
個性を追い求めるあまり昔なら信じられないような低レベルな事物であってもいいと評価するというような、もっとありていに言えば一億層逆張り化っていうかね、でもそれって自分の中学生~高校生くらいの姿勢だったからあまり批判はできないんだけど。
メインカルチャーが教育における個性の尊重(≒大衆化の否定)によって消え失せて
その代替えとしてカウンターカルチャーのメイン化が進んできたっていうのかな。
(教育における個性の尊重と大衆化の否定の補論…
個性教育については90年代以降とくに叫ばれて久しいが、近年でも多様化という言葉とともに礼賛されている。これはアメリカからの輸入であることは戦後の歴史を見れば明らかなのだが、私は個人的にかなり欠陥を抱えていると感じており、個性化尊重の教育を受けている最近の若者の自己肯定感の低さの割合が高まっていることはかなり注目したい。
何が言いたいか?すなわち日本にはクリード(信条・信仰心)がないにもかかわらずいきなり個性というのを輸入したもんだから自分とはかくあるべきなのか?という討議をするまえにとりあえずの個性を容認してしまう。もし世界に自分だけしか存在しなければ他人と自分を認識できないことからも明らかなように本来の個性とは反発や討議のなかで生まれてくるものではなかろうかと私は考えている
アメリカの場合まず宗教があってそこに規範があって、そして自分という存在がいる。だからそことの比較で自分というものを認識し、なにが自分らしいのかをしっかりと認識できるのではないか…と考えている。
保守系議員から愛国心教育についての実施が検討されたことがあったけど、あれは真剣にやるべきだと思う。別に強制的に洗脳させるんじゃなくてその教育を通じて日本人らしさってのをとりあえず貰ってから各々で討議すればよいっていう。
70年代から80年代まで管理教育ながらも個性的な人が登場していたのは皮肉にも『こうあるべきだ』ってことを強制されていたからって側面があるんじゃないかって思ってるわけです。それじゃいやだと言って窓ガラス割りまくる選択、個性的な選択(?)って、選択肢を生み出さないと生まれないっていうか。ああいう教育がなかったら尾崎豊の歌は誕生しなかったと思うんですね)
恥ずかしいような絵柄の電車が街で走っていたりすると本当にそう思う。
別に叡山電車の批判じゃないけど、あんなもんが古都京都に走ってるっていって誰も何も言わないのが、今の無関心化を表していると思う(*3)。
まあエネルギーコストは確実に効率化したと思う。京都の大衆はあんなものは恥ずかしいという風に目くじらを立てずに興味のないこととして無視すればよいのですから。
(*3:もっとも実態として出町柳から以北ですし、いわゆる観光客の目につきやすいところを走っているかというとそうでもない。まともな(?)観光客はひえいに乗るんでしょうが)
久しぶり過ぎて自分でも何を書いてるのかわからなくなってきた、申し訳ない。
つまりつまりですね、僕の中ではいわゆる旧来のメインカルチャーが個性教育の推進によって破壊され(最近感じるトレンドへの違和感の原因)しかし無趣味者であふれるわけじゃないからその代償としてかつてのカウンターカルチャー的存在の"もの"(アニメ・ドラマ・ひとりキャンプなどなど…なんでもよい)がそれぞれバラバラに小規模なコミュニティ内で消費されている、って言いたかった。
テレビの視聴率がとりわけ若年層にきわめて苦戦しているのはまさしくそれが理由で決めつけを嫌がりつつも自分で見つけた(と思い込んでいる)"もの"への執着心と傾倒はすさまじくて、それが先に挙げた非匿名化への抵抗感のなさにつながっていくというか。
その小さいコミュニティで自分をいくら晒そうが周りは同調者だから問題ないわけです。
私はそういうのも好きじゃないからな。無責任でありたい。
補論:近年のTwitter等の炎上について
この論から推察すると炎上の要因はいろいろとある。炎上させた本人が一番悪いというのは置いておくとしても、おそらくコミュニティ中の内ゲバも相当あるのではないかと推測している。それを5chや別アカのなにかに持って行って火をつける…と。
久しぶりの日記でなに小難しいふりして書いてるんだって感じですけども、22年も続いたサイトの終焉なので昔からネットをただ見てきただけの人間として書いてみたくなりました。
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