Do you have a close friend? [2333号]
2008年8月7日本日の日記
16時頃の電話に気づいてかけ直したのは、それから5時間過ぎた21時の話。そのとき別に何かをしているわけではなかったのですが、ついついマナーモードを解除せず(しかもサイレントマナー)目の届かないところに置いてしまったためにそんなとこに。本当携帯に出ない、出ないと迷惑をかけているため、携帯を常に眼下に置くことに決めていたのですが・・・見てないときに限って、というヤツです。ごめん。
その電話主はY
僕
「電話くれた?」
Y
「ああたいしたことじゃない、ただ暇だったからさ・・・どうしてるかなと」
うわー、フラグ(?)折ってもうた・・・。カラオケなだれ込みも可能だったかもね。
ここからしばらく雑談でした。日々の心境報告など。
ところがある質問をきっかけにしばらくの間長い議論となった。
Y
「ところでさ、これはある人に聞かれた話でもあるんだけど、友達と親友の違いってなに?」
Yの質問は自然でした。普段僕はこういう系統の考えや妄想にハマっているという話もYは知ってましたし、大昔ですが万華鏡と僕がやりとりをする場面を一度限りで目撃したこともあります。
(この日:
http://14421.diarynote.jp/?day=20030211)
僕とYはあまりそういう哲学(?)チックな話はせず、まあとりとめのない、というか、僕自身もYは複雑な話は好かんだろうと思ってあまり話さなかったのですが、その意外な、でもある意味古典的な質問に僕はこう返事をしました。
僕
「そりゃ信じてる度合いじゃないのかね、友達より信じられるひとは親友」
Y
「ということは友達はたいして信じてないの?」
僕
「別にそんなことないけど」
Y
「じゃ、どれくらい信じられたら親友?」
僕
「う、うぐぅ・・・うむ、複雑な話だな」
と僕は久しぶりに答えにつまってはしまった。いやいつも正確なことを言えているわけじゃないが、僕の中で僕の立ち位置はボケとつっこみならつっこみ役だと解していたのでYの詰問は意外な感じでした。
僕
「まあその度合いは人によって様々なきがするけど・・・例えば俺とお前はどうなんだ?」
Y
「うーん、お前とは長いから改めてどうこう言うっていう感じじゃない」
僕
「(明言しないのね・・・)でもまあそこから考えてみた方が良いような気がする」
僕
「例えば俺とお前が俺の家で焼き肉をするとする、スーパーで材料買ってあり得ないことに肉を買い忘れたとする。すると俺が言う『お前この鍵もって先に帰っとけ』と、これは親友程度の信頼をしているから出来ることと思うけどどう?」
Y
「俺はそもそも親友でも何でも鍵を渡さないし、受け取らない」
僕
「確かに極端かもしれない、今住んでいる家の鍵なら俺も渡せない、実家だから。でも一人暮らししてたらお前にかぎ渡すぞ?」
Y
「うーん、それでも受け取らないし渡さない。もしそれでその時はうまく終わってもそのあと、例えばお前が飼ってる猫がお前の大事ななんかを隠したとしてさ、で、その時お前が慌てるわけで、そのとき俺の顔が浮かぶだろ?盗んだ犯人として」
僕
「無くなったものにもよるけどそう言うときは警察呼ぶ」
Y
「まあそうかもしれないけど、でも俺はそれがいやなんだよ
逆に自分がそうして親友を疑うのもいやなんだ、そうしないと思っても1パーセントでも疑ってしまう、そんな自分がね」
僕
「俺はたぶん疑わないし、かりに疑われても、あとで疑惑が晴れるんだろ?そしたら俺は『なに疑ってんだばーーか!』って冗談でもいうけどね」
Y
「それはおかしい、それが嫌なんだよ!
だってさ、親友ってのは互いを信じ合ってるんだろ?
だったら怒ってほしいんだよ、俺は、なんで俺を疑うようなことをしたんだ!ってなんでへらへら笑ってられるんだよ、逆にそんな気持ちでしか信じてなかったのか?へらへら笑えるくらいにさ。
信じ合っているはずなのに疑ってしまったわけだから、本当に信じていたことではないだろう?そうなることが嫌だし、それを避けたくても避けられないのをわかってるから鍵を貸したくないんだ」
・・・槇原敬之と電話してるのかと思った。
なるほど。と言う言葉がこの電話ほど素直に出た日はない。本当に自分の意見と逆さまで素直に納得して感服した回答だった。
そうだよね、確かにYの言うとおりだ。親友が互いに信じ合うものなら、そこに疑いを持ち込むことのそれ自体がずれている。
僕はもっと気軽な思いで親友ということばを捉えていたのですが、言われてみると親友とは、それくらい重たいものなのかもしれない、とそんな風に思った。そもそもあいつが怪しいと思う次点で信用していないというYの言葉は本当黙り込んでしまうくらい強かった。
僕
「いい詩書けると思うぞ、お前。なんで槇原敬之を聞かん?」
Y
「(笑、聞く機会がないんだよ」
槇原敬之の人間観に近いものを感じてしまうあたり、真面目に電話の話を聞いてますかーと怒られてもしょうがないと思うけど、槇原敬之の歌での人と人との間に交わされる親密さの厳格さに、僕は幻想的だなぁという感想を持っていたりしたのですが、Yはあんな歌を聴かずともそういう視点を持っていたわけで、結構現実なんだなぁと感動したのです。
僕
「ちゃんと夜寝られてるか・・・」
Y
「大丈夫さ、でもそう思うだろ」
僕
「ウン・・・もうなにも返さないや、俺もそう思う」
別にYは親友と親友が常に真面目で実直であるべき、と言いたいわけじゃなくて、言葉にたいして非常に真面目なんだと思います。
実際Yが語るエピソードを聞くと、槇原敬之の歌の主人公さながらのものもあったりして(というのは言いすぎかもしれないけどね)
思う心に正直でいたいという気持ちを大切に暖めるひともちゃんといるんだな、と思ったりしています。僕はそう言うタイプじゃないですから。妥協しない感じを見せて、別にそう言うわけでもないのです。力量不足なだけで実現不可能なことに理屈を通すように工作する狡猾な人間だと思います。
その後wikipediaや広辞苑やはてな?をみたりしましたが、答えは見当たらない。
結局2時間40分も友達の友達はアルカイダ(違っ)議論は続きました。
鳩山法相・・・結構好きだった。
Yからはあと「他人は鏡」という言葉も貰いました。この言葉自体Yは友人から貰い受けたらしいのですが・・・。
Y
「俺より年上の人なんだけど、やっぱり年上だけあってよく物事を理解してると思うんだ、この言葉を聞いたときにこれを一生心がけようと思った」
と言ってました。人の振り見て我が振り直せをもっと端的にいった言葉です。人というのは自分の鏡なんであって嫌なところが見えたら、きっと自分も同じ事をしてるのだろうと思って見つめ直す、というのです。そうだよね。でも僕は悪いところを見ると自分は違うってつい思っちゃうタイプなんですよー。
いつかYは立派な思想家になったりしてな。彼の話を聞いてると、本当に面白い。僕は日記でいろいろ書いてきたけど全部捨てたくなるよ。短くてわかりやすい言葉で納得させるだけの力を持ってるもの。
ま、でもそれは吸収せよ、ということなんでしょうから吸収して・・・。
僕は言葉の海で泳ぐのが好きです。
でも言葉って伝わらないと意味がないですよね。
シンプルな言葉って難しい。
そのあと僕はいろいろと新論を彼にぶつけました。
例えば・・・
・親友と呼べる人は必ず毎日会うこと(社会的な必然性)が無くなったときに(卒業後・退職後など)それ以降もずっと適度な頻度で連絡が続いていたら親友
Yの反証→そもそも頻度の具体的な間隔がわからないし、もしそうなのであればそう言う人は現在たくさんいる。ということは殆どが親友ということになるが・・・。
・信用の強さだと思う。信用が出来る人出来ない人っていうのは、食べ物の好き嫌いみたいに直感的に決まる部分も多いと思う。
Y→信用の強さ、では親友になるしきい(いき)値がよくわからない。自分の信用の強さだけで親友と言って良いのだろうか?
結局結論は見えなかった。だから最終的には僕も良く考えて日記にレポートするという約束をして終わった。といいましてもYはPCを好まないのでこの日記を見ることはたぶん無いと思いますが。
僕の最終結論
親友と友達の定義は非常に曖昧で難しい。恋と愛は何が違う?的なものがある。そもそもYと話をして思ったのはなんだか恋愛みたいな話だなぁと。
Yは友達だと思っていた人から、ある日第三者に自分を紹介されたとき、友達という紹介ではなくただのバイト仲間といわれたことにショックを感じたそうです。
僕
「いわば友達片思いだなそりゃ」
と僕は言ったんですけど、Yと僕で明確な結論はなかったけど、でも結構「お互いに信じ合える」説が支持されていたように感じます。ただそれにはお互いの意志を知る必要があって
僕
「愛してる、に似た言葉が必要だな!」
(親友ってる!とか?)
と僕が言ったんですが、でも相手がいくらそう言ったところで信じられるものでもないし、信じて欲しい!と言うから信じるというのはやはり違うだろうという意見もあるでしょう。
僕としてはこういう結論です。
人が人としている限り人と人との間に絶対は、直接的血縁関係のあるものを除いては成立しにくく、信用と信頼によって成り立っている友人関係では、もっとも信頼ができる人、信頼されてもいい人を「親友」と呼べ!
です。もっとも自分に接近を許すものを親友と呼んでいいと思います。でも相手がどう思っているかはわからないので相手がそういうことを明確にしないうちは、こちらも明確にしない方が良いかもしれません。
もう少し言いますと、結局は主観だと思います。人は意志によって動きます。心があるんです。なにをしてもやはり心が一番電話は二番、三時のおやつは博報堂です。(文明堂、な)
意志の決定は主観が決めて理性が客観的に判断して実行する・・・のかは専門家じゃないから知りませんが、何かを思う気持ちの発信源は自由なこころから生まれてくることを思えば、親友と友人の線引きは存在するものを探し出してフィルタリングするというよりは、自分で作成して自分なりに振り分ける方がよいと思います。
Yは納得するでしょうかね・・・。
今日のマミ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
サビがカーテン裏で寝ていると思ったら、別の部屋のカーテンの裏でマミが寝ていた。カーテン裏の睡眠が、我が家の猫界ではブームです。
そんな狭苦しいところで寝なくても・・・。
久しぶりに『勝手に僕も答える』
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
きょうのしつもん
「花火大会に行ったことはありますか?」
([あおいさんに一日一問]より
http://aflac-duck.jp/aoi-ichimon/)
花火ねぇ・・・。
中学生だったときに当時隣の席だった女の子に
「花火大会見に行こうよ」と言いまして、連れ出し、人混みをかき分けながら、上がっていく花火を一生懸命に見る。
花火を一生懸命見るんだけど、空を見上げる彼女も気になって
じっと見てたら
「花火終わっちゃうよ?私ならいつでも見られるじゃない」
といわれて萌えたことが本当にありません。
花火大会、見に行ったことあるけど小さいころに親と行っただけ。
友達とも見に行ったこと無い。だって家から見えるんだもん。混雑した場所嫌いだし・・。
昔は自宅から花火を見るのが好きという超根暗だったもので(わざわざ部屋を真っ暗にして窓を開け放ち(*1)麦茶飲んだりお菓子食べたり・・・一人で・・・俺本当知り合いがいるんだよな、と確認したくなるほど虚しかった)
16時頃の電話に気づいてかけ直したのは、それから5時間過ぎた21時の話。そのとき別に何かをしているわけではなかったのですが、ついついマナーモードを解除せず(しかもサイレントマナー)目の届かないところに置いてしまったためにそんなとこに。本当携帯に出ない、出ないと迷惑をかけているため、携帯を常に眼下に置くことに決めていたのですが・・・見てないときに限って、というヤツです。ごめん。
その電話主はY
僕
「電話くれた?」
Y
「ああたいしたことじゃない、ただ暇だったからさ・・・どうしてるかなと」
うわー、フラグ(?)折ってもうた・・・。カラオケなだれ込みも可能だったかもね。
ここからしばらく雑談でした。日々の心境報告など。
ところがある質問をきっかけにしばらくの間長い議論となった。
Y
「ところでさ、これはある人に聞かれた話でもあるんだけど、友達と親友の違いってなに?」
Yの質問は自然でした。普段僕はこういう系統の考えや妄想にハマっているという話もYは知ってましたし、大昔ですが万華鏡と僕がやりとりをする場面を一度限りで目撃したこともあります。
(この日:
http://14421.diarynote.jp/?day=20030211)
僕とYはあまりそういう哲学(?)チックな話はせず、まあとりとめのない、というか、僕自身もYは複雑な話は好かんだろうと思ってあまり話さなかったのですが、その意外な、でもある意味古典的な質問に僕はこう返事をしました。
僕
「そりゃ信じてる度合いじゃないのかね、友達より信じられるひとは親友」
Y
「ということは友達はたいして信じてないの?」
僕
「別にそんなことないけど」
Y
「じゃ、どれくらい信じられたら親友?」
僕
「う、うぐぅ・・・うむ、複雑な話だな」
と僕は久しぶりに答えにつまってはしまった。いやいつも正確なことを言えているわけじゃないが、僕の中で僕の立ち位置はボケとつっこみならつっこみ役だと解していたのでYの詰問は意外な感じでした。
僕
「まあその度合いは人によって様々なきがするけど・・・例えば俺とお前はどうなんだ?」
Y
「うーん、お前とは長いから改めてどうこう言うっていう感じじゃない」
僕
「(明言しないのね・・・)でもまあそこから考えてみた方が良いような気がする」
僕
「例えば俺とお前が俺の家で焼き肉をするとする、スーパーで材料買ってあり得ないことに肉を買い忘れたとする。すると俺が言う『お前この鍵もって先に帰っとけ』と、これは親友程度の信頼をしているから出来ることと思うけどどう?」
Y
「俺はそもそも親友でも何でも鍵を渡さないし、受け取らない」
僕
「確かに極端かもしれない、今住んでいる家の鍵なら俺も渡せない、実家だから。でも一人暮らししてたらお前にかぎ渡すぞ?」
Y
「うーん、それでも受け取らないし渡さない。もしそれでその時はうまく終わってもそのあと、例えばお前が飼ってる猫がお前の大事ななんかを隠したとしてさ、で、その時お前が慌てるわけで、そのとき俺の顔が浮かぶだろ?盗んだ犯人として」
僕
「無くなったものにもよるけどそう言うときは警察呼ぶ」
Y
「まあそうかもしれないけど、でも俺はそれがいやなんだよ
逆に自分がそうして親友を疑うのもいやなんだ、そうしないと思っても1パーセントでも疑ってしまう、そんな自分がね」
僕
「俺はたぶん疑わないし、かりに疑われても、あとで疑惑が晴れるんだろ?そしたら俺は『なに疑ってんだばーーか!』って冗談でもいうけどね」
Y
「それはおかしい、それが嫌なんだよ!
だってさ、親友ってのは互いを信じ合ってるんだろ?
だったら怒ってほしいんだよ、俺は、なんで俺を疑うようなことをしたんだ!ってなんでへらへら笑ってられるんだよ、逆にそんな気持ちでしか信じてなかったのか?へらへら笑えるくらいにさ。
信じ合っているはずなのに疑ってしまったわけだから、本当に信じていたことではないだろう?そうなることが嫌だし、それを避けたくても避けられないのをわかってるから鍵を貸したくないんだ」
・・・槇原敬之と電話してるのかと思った。
なるほど。と言う言葉がこの電話ほど素直に出た日はない。本当に自分の意見と逆さまで素直に納得して感服した回答だった。
そうだよね、確かにYの言うとおりだ。親友が互いに信じ合うものなら、そこに疑いを持ち込むことのそれ自体がずれている。
僕はもっと気軽な思いで親友ということばを捉えていたのですが、言われてみると親友とは、それくらい重たいものなのかもしれない、とそんな風に思った。そもそもあいつが怪しいと思う次点で信用していないというYの言葉は本当黙り込んでしまうくらい強かった。
僕
「いい詩書けると思うぞ、お前。なんで槇原敬之を聞かん?」
Y
「(笑、聞く機会がないんだよ」
槇原敬之の人間観に近いものを感じてしまうあたり、真面目に電話の話を聞いてますかーと怒られてもしょうがないと思うけど、槇原敬之の歌での人と人との間に交わされる親密さの厳格さに、僕は幻想的だなぁという感想を持っていたりしたのですが、Yはあんな歌を聴かずともそういう視点を持っていたわけで、結構現実なんだなぁと感動したのです。
僕
「ちゃんと夜寝られてるか・・・」
Y
「大丈夫さ、でもそう思うだろ」
僕
「ウン・・・もうなにも返さないや、俺もそう思う」
別にYは親友と親友が常に真面目で実直であるべき、と言いたいわけじゃなくて、言葉にたいして非常に真面目なんだと思います。
実際Yが語るエピソードを聞くと、槇原敬之の歌の主人公さながらのものもあったりして(というのは言いすぎかもしれないけどね)
思う心に正直でいたいという気持ちを大切に暖めるひともちゃんといるんだな、と思ったりしています。僕はそう言うタイプじゃないですから。妥協しない感じを見せて、別にそう言うわけでもないのです。力量不足なだけで実現不可能なことに理屈を通すように工作する狡猾な人間だと思います。
その後wikipediaや広辞苑やはてな?をみたりしましたが、答えは見当たらない。
結局2時間40分も友達の友達はアルカイダ(違っ)議論は続きました。
鳩山法相・・・結構好きだった。
Yからはあと「他人は鏡」という言葉も貰いました。この言葉自体Yは友人から貰い受けたらしいのですが・・・。
Y
「俺より年上の人なんだけど、やっぱり年上だけあってよく物事を理解してると思うんだ、この言葉を聞いたときにこれを一生心がけようと思った」
と言ってました。人の振り見て我が振り直せをもっと端的にいった言葉です。人というのは自分の鏡なんであって嫌なところが見えたら、きっと自分も同じ事をしてるのだろうと思って見つめ直す、というのです。そうだよね。でも僕は悪いところを見ると自分は違うってつい思っちゃうタイプなんですよー。
いつかYは立派な思想家になったりしてな。彼の話を聞いてると、本当に面白い。僕は日記でいろいろ書いてきたけど全部捨てたくなるよ。短くてわかりやすい言葉で納得させるだけの力を持ってるもの。
ま、でもそれは吸収せよ、ということなんでしょうから吸収して・・・。
僕は言葉の海で泳ぐのが好きです。
でも言葉って伝わらないと意味がないですよね。
シンプルな言葉って難しい。
そのあと僕はいろいろと新論を彼にぶつけました。
例えば・・・
・親友と呼べる人は必ず毎日会うこと(社会的な必然性)が無くなったときに(卒業後・退職後など)それ以降もずっと適度な頻度で連絡が続いていたら親友
Yの反証→そもそも頻度の具体的な間隔がわからないし、もしそうなのであればそう言う人は現在たくさんいる。ということは殆どが親友ということになるが・・・。
・信用の強さだと思う。信用が出来る人出来ない人っていうのは、食べ物の好き嫌いみたいに直感的に決まる部分も多いと思う。
Y→信用の強さ、では親友になるしきい(いき)値がよくわからない。自分の信用の強さだけで親友と言って良いのだろうか?
結局結論は見えなかった。だから最終的には僕も良く考えて日記にレポートするという約束をして終わった。といいましてもYはPCを好まないのでこの日記を見ることはたぶん無いと思いますが。
僕の最終結論
親友と友達の定義は非常に曖昧で難しい。恋と愛は何が違う?的なものがある。そもそもYと話をして思ったのはなんだか恋愛みたいな話だなぁと。
Yは友達だと思っていた人から、ある日第三者に自分を紹介されたとき、友達という紹介ではなくただのバイト仲間といわれたことにショックを感じたそうです。
僕
「いわば友達片思いだなそりゃ」
と僕は言ったんですけど、Yと僕で明確な結論はなかったけど、でも結構「お互いに信じ合える」説が支持されていたように感じます。ただそれにはお互いの意志を知る必要があって
僕
「愛してる、に似た言葉が必要だな!」
(親友ってる!とか?)
と僕が言ったんですが、でも相手がいくらそう言ったところで信じられるものでもないし、信じて欲しい!と言うから信じるというのはやはり違うだろうという意見もあるでしょう。
僕としてはこういう結論です。
人が人としている限り人と人との間に絶対は、直接的血縁関係のあるものを除いては成立しにくく、信用と信頼によって成り立っている友人関係では、もっとも信頼ができる人、信頼されてもいい人を「親友」と呼べ!
です。もっとも自分に接近を許すものを親友と呼んでいいと思います。でも相手がどう思っているかはわからないので相手がそういうことを明確にしないうちは、こちらも明確にしない方が良いかもしれません。
もう少し言いますと、結局は主観だと思います。人は意志によって動きます。心があるんです。なにをしてもやはり心が一番電話は二番、三時のおやつは博報堂です。(文明堂、な)
意志の決定は主観が決めて理性が客観的に判断して実行する・・・のかは専門家じゃないから知りませんが、何かを思う気持ちの発信源は自由なこころから生まれてくることを思えば、親友と友人の線引きは存在するものを探し出してフィルタリングするというよりは、自分で作成して自分なりに振り分ける方がよいと思います。
Yは納得するでしょうかね・・・。
今日のマミ
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サビがカーテン裏で寝ていると思ったら、別の部屋のカーテンの裏でマミが寝ていた。カーテン裏の睡眠が、我が家の猫界ではブームです。
そんな狭苦しいところで寝なくても・・・。
久しぶりに『勝手に僕も答える』
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
きょうのしつもん
「花火大会に行ったことはありますか?」
([あおいさんに一日一問]より
http://aflac-duck.jp/aoi-ichimon/)
花火ねぇ・・・。
中学生だったときに当時隣の席だった女の子に
「花火大会見に行こうよ」と言いまして、連れ出し、人混みをかき分けながら、上がっていく花火を一生懸命に見る。
花火を一生懸命見るんだけど、空を見上げる彼女も気になって
じっと見てたら
「花火終わっちゃうよ?私ならいつでも見られるじゃない」
といわれて萌えたことが本当にありません。
花火大会、見に行ったことあるけど小さいころに親と行っただけ。
友達とも見に行ったこと無い。だって家から見えるんだもん。混雑した場所嫌いだし・・。
昔は自宅から花火を見るのが好きという超根暗だったもので(わざわざ部屋を真っ暗にして窓を開け放ち(*1)麦茶飲んだりお菓子食べたり・・・一人で・・・俺本当知り合いがいるんだよな、と確認したくなるほど虚しかった)
コメント